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西新日和vol.4

活気ある商店街。学生の街。そのルーツは、江戸時代にあった! 昭和50年代。プラリバの前身・西新岩田屋が建設中の頃。
西新の町には、今も昔も、人々の暮らしがありました。では、一体いつ頃からなのでしょう?西新の今を知るために…。今回は西新の歴史を紐解いてみたいと思います。

プラリバは2010年で誕生7周年。ご存知のようにその前は西新岩田屋でした。西新岩田屋が開業したのは、今から30年近く前のこと。でも西新はそのずっと前から、活気に溢れる商店街として、学生たちの文化発信の町として発展してきたのです。

町として栄える以前のことに遡ってみましょう。「西新町遺跡」には、弥生時代~古墳時代(3~4世紀頃)に、朝鮮との貿易があったことが伝えられています。その後の歴史で象徴的に語り継がれているのは、「元寇防塁跡」で知られる鎌倉時代の蒙古襲来です。百道浜一帯は蒙古襲来(元寇)の主戦場でした。1274年の「文永の役」で一度は撤退した元軍の更なる襲来に備え、鎌倉幕府は博多湾の海岸一帯20kmにわたって石の防塁を築きます。そして1281年「弘安の役」では、元軍はこの石築地に阻まれて上陸できず、さらに暴風雨に襲われて潰滅してしまうのです。

防塁跡の写真

西新地区の防塁跡は、大正時代の西新尋常小学校の生徒たちが発掘したもので、藤崎の「西新墓地」横(写真)、西南学院大学の体育館の南、西南学院大学内にあります。

紅葉八幡宮の写真

紅葉八幡宮。現在は高取1丁目ですが、江戸時代は現在の西新パレスの位置にあったのです。「西新」という呼び名も、江戸時代に現在の中央区今川付近が「西町」と呼ばれていたのに対し、樋井川以西を「新西町」と呼んだことに由来しているとか。これがいつしか逆転して「西新」になったと言われています。

西新が「町」として栄えはじめたのは、江戸時代のこと。現在は高取1丁目にある「紅葉八幡宮」が、西新に遷宮されたことが大きな契機と言われています。元々、橋本村(現・西区橋本)にあった「紅葉八幡宮」は黒田藩3代目光之候の氏神で、寛文6(1666)年に、城下に近く御参拝に便利の良い西新の地(百道松原、現在の西新パレス一帯)に遷宮されたそうです。以降、西新は門前町として栄えます。「福岡藩の政策だったのでしょうね。というのも、まずお宮の番人として3人の家士を置き、宮司の家とその三人の家ができたんです。そして博多の町人たちに松を植えさせ、その松はのちに武士たちが住む家の材料になり…。それから家が増えて商売がはじまり、町は栄えていきます。意識的に町を造ろうとしていたのでは…と私は思いますね」と、現在の宮司、平山晶生さんは言います。

その後「紅葉八幡宮」は、明治末に電車(北筑軌道)が境内を横切り、境内ではそれまでの静粛さが失われてしまったため、大正2年、町が一望に見渡せる現在の地、高取に遷宮されたそうです。電車が通ったことで、西新の発展にはずみがついたのは言うまでもありません。「紅葉八幡宮」はまさに福の神だったのです。

「商売繁盛のもう一つの理由は、百道の海水浴場ではないでしょうか。電車が近くて遠浅の海で、飛び込み台もあって、たくさんの人が来ていたようです。海水浴客にトラック一杯分のスイカが売り切れたなんて話もあります」と平山さん。西新、高取一帯は、早良の農村地区と福岡の町を結ぶ位置にあり、生産と消費の接点だったのです。地元で採れた野菜や果物を町で売る。その伝統は、現在まで続く「リヤカー部隊」にも受け継がれています。

西新のもう一つの顔といえば、“ペンと鉛筆”で表された地下鉄のシンボルマークにもある通り、学生の街としての側面です。幕末から明治にかけては私塾が増えた時代です。「このあたりは下級武士たちがたくさん住んでいて、読み書きが必要だったからというのもあります」と平山さん。なかでも滝田紫城の私塾「折中塾」は、自由民権運動の先駆者であり後に玄洋社をおこした頭山満らを輩出しています。そして明治33年には旧藩校の修猷館が、さらに大正7年には西南学院が大名から西新へ移転。大正6年には修猷館に同居する形で福岡中学校も創立され、西新は文教地区としても発展していくのです。

こうして歴史の一つひとつを辿っていくと、改めて西新という町の魅力を感じます。たまには古の香りを探して、散策してみてはいかがでしょうか。きっと、もっとこの町が好きになるはずです。



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紅葉八幡宮 宮司 平山 晶生(ひらやまあきお)さん。西新の歴史にとても詳しく、わかりやすく話していただけました。
nishijin biyori
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